常に、自分の中の先駆者でありたい
僕は、今までとくに高校生の時に悩んでたことがあります。 それは、「自分が、やりたいと思ったんだけど誰かがやってくれるでしょ」って思って自分の中で正当化させてた。 例えば、お年寄りに席を譲るとか。なんか、調子いい時はすぐに譲れるんだけど、譲るタイミングをミスるとなかなか言い出せない自分に腹が立ってた。そんで、きっと誰かが譲ってくれるから大丈夫だと言い聞かせて終わってた。
しょーじき、かなり辛かったあの時は。 自分との戦い。 ここ最近でも、そんなことがあった。 なんか、自分がしたいとか思った時に誰かがやってくれるだろうって考えるのってなんでなんだろう?
自分が、傷つくかもしれないから擁護するためかな?
自分に自信がないからかな?
今まで、できそうだなって思ったことはけっこー、挑戦するんだけど少しでも気を抜いたらできないんじゃないかっていうネガティブな思考が入り込んで人任せにしてしまってた。それって、諦めて自分を正当化させてたのかも
最近、もっと俺、失敗しないとなってほんとに思う。今まで、失敗ばっかりだったけどそれは誰かのせいにして逃げてた。 今なら、自分がやりたいと思ったことをやって失敗したら受け止められる。だって、自分がしたいって思ったんだから。そして、ポジティブシンキングになったから。
自分は、2年前にいろんな世界を見に行って客観的に日本を見れるようになった。そこで、日本の良い所、こーなったらもっと良いのになってこととかを自分なりに見つけた。 なら、人任せにするんじゃなくてまずやってみようと思う。例え、自分の力がほんの少しだったとしても動かないよりかはマシだと思うし。 こないだ、都知事の失態を見て初めて政治界に怒りを覚えた。政治に対して、感情が現れたこと自体が自分でも驚いてるけど。 みんなにとっても、自分にとっても最高の日本を目指すために、まず一歩踏み出さないとと思った。
だから、今、まずは民進党の手伝いをしてみようと思う。別に、何党を応援とかじゃなくてまず知ってみようと思う。
もし、少しでも興味を持ってる人がいたりしたら声かけてほしい。 そして、ツテがある人とかいたら紹介してほしいです。
一歩の重さの違い
先週の土日に、初めて国際交流Englishキャンプというのに参加しました。 これは、外国人のボランティアの人達を集めて小学生の子供達と一緒にキャンプをするというイベント。毎週、土日やってるそうです。
が、しかしですよ
まだなーにも分からない状態の朝にいきなりチームのリーダーをしてくださいと言われて朝から大パニック! 初回だったし、しょーじき英語が全くできない状態で参加したのにいきなりリーダー、、、(・_・;
ヤバい、ヤバい、ヤバい
でも、任命されたからにはやるしかない。 他の2チームのリーダーは英語バリバリの日本人達で、リーダーに伝えてもらったことをどーやってチーム内の外国人に共有しようかとか悩みは尽きずもー、パンク寸前でした笑 幸いなことに、チーム内のメンバーは日本語が少しわかる外国人もいたので英語と日本語を混ぜながら説明したりすることで少しは伝えることができました。
初め、子供達も自分たちも少しキョリを感じているのか緊張してたんだけど、子供達はすごいね。 すぐに、打ち解ける。相手がどんな人かなんて関係なしに「あそぼーあそぼー」って。あまりにも、純粋すぎて少し拍子抜けするかと思ったくらい。
すぐに、「リーダー」「リオ」って班の子供達が呼んでくれて純粋に嬉しかった。
そしてあることに気づきました。
子供達って単純で面白い人の元に集まるなって感じました。面白いに差はあるかもしれないけれど、バカなこと言ってる人とか、かまってくれる人とか。面白くなくなったらすぐに違う人の元に移動する。かなり過酷な戦いではあったけれど簡単になろうと思えば、こいつらのリーダーになれるなって思いました。
だから、体力の続く限り子供たちの遊びに付き合ったし、商品が出るゲームは商品がもらえるようにチームで全力で戦いました。
改めて、自分にびっくりしたことがあります。英語もろくにできないのによく、このEnglishキャンプに参加しようと思ったなって自分で言うのもなんですが驚きました。 後先考えないというのは、前から分かっていたのですがイイ意味では他の人にとっての重い一歩が、自分にとっては軽い一歩なのかもしれないなって感じました。 でも、始めてから毎回苦労するんですけどね。
自分のコンプレックスが、自分の強みにできるのでないかって感じた出来事でした。
覚悟はいいか?
人生って、何か自分で決断する時って常にあるよね? その道を決めた時って、あってるかあってないかなんてなくて誰もわからん。ただ、結果は必ずやってくる。
1つだけ毎回こっちの道って決めた後にやるべきことがあるなってことを学んだ。それは、自分が決めたんだから後悔が残らないように全力でやること。
すなわち、覚悟。
これだけできれば、確実にその決めた道でよかったなって後で思えるってことに気がついた。
いっけん普通に考えればそうなんだけど、今までで決断した時、完全に自分で決めてたこともあったけど、流されてとか誰々が言ったからとか自然と他の人の考えが混じってたときがあったんだよね。
それって失敗とかした時、人のせいにしてしまってたし、また何回も同じことを繰り返しちゃってた。いつからだろう自分と向き合って、他の人の意見も聞いてなおかつ自分で考えて決断ができるようになったのは、、、
覚悟を決める。 それは、すべて自分が決めたことだと思ってる。だから、自分が決めてくれたことなんだから自分に責任を持って、自分に恥じないように生きていこうと思う。だって、自分に失望されたくないから。覚悟ってすごい難しい。時々、自分が可愛くて甘やかしてしまう。そんなんじゃ、未来の自分に笑われるんだよな
なんかの漫画かなんかで見た言葉を思い出した。
”死ぬほど、努力してみ。案外、人って死なないから”って。
だよね。もっと、成長したい。だから、もう少し頑張ってみる。どーせ、伸びしろしかないし。
これからも、応援よろしくお願いします。
失ってから気がついた宝物
そーいえば、こないだ母の日でしたね。 俺、実は家の掃除をしただけでそれ以外なんもしていませんでした。 忙しいとか、花でも買おうかなとか思ってたんですけど金銭的にも余裕がなくてとか言い訳して何となく過ぎてしまった....
そしたら、この間Facebookでこんな動画が流れてきた。
5分のプレゼンテーションの動画なんですけど、心を打たれてしまった。自然と感情が高ぶってきてしまってここに書こうと思いました。
だって、このブログは自分の感じたことをリアルにつづるために書いてるし(もちろん自分のために)、その考えが他の人に知ってもらって共感や、同じことを考えてる仲間を探すための手段として使ってるから。
多くの物って、最初は新鮮だったりして大事に使うんだけど、だんだんと「当たり前(慣れ)」っていう生き物が、ありがたさを感じる器官を麻痺させてしまうのかもしれない。
だから、多くの人は失ってからそのありがたさに気がつく。でも、失ってからだったら、もーそのもの自体は形としては無くなってしまう。だからこそ、普段から感謝の心を忘れてはダメなんだね。
いつの間にか、生きてて当たり前。何か、してくれて当たり前。そーなっていってしまってるようで、怖くなってきた。この社会には、いったい自分がどれだけ当たり前って思ってしまっていることがあるのだろう。
この動画のMarkさんは、失ってからだけど気がつくことができた。そして、自分を変えることができた。だから、舞台に立って人前で話すことができる。そして、今なら言える。
「お母さん、ありがとう」
たったその一言。 でも、それが言えていなかった。
今、自分には家族がいる。まず何よりも家族を大切にすることを忘れてはならないなって感じた。そして、失敗を経験した人たちが教えてくれた。
俺、一瞬諦めてしまった、、、
こないだ、NPOカタリバで高校生とカレーを作るって企画したんだけど、そこの生徒達いまだかつてないほどヤンチャでじっとしていられないやつらだった。
なんてゆーか、中学生の自分を見ているかのようだった。こんな時、自分だったらどんな事言われたかっただろうって必死に考えたんだけど答えが出せなかった。
すごく、悔しかった。
いつものカタリバと違って、カレーを一緒に作るっていう楽しい企画のはずだったのに自分の無力さを感じた。 まったく、人の話を聞いてくれないやつがいた時なぜだか一瞬この子はしょうがないかなって思ってしまった。
しょうがないってなんだって後から思った。しょうがないって、そいつの何を俺は知ってるんだろって思ったし、こっちが諦めちゃったらそいつへの道は閉ざされちゃうんだもんな。そしたら、今日俺が来た意味が無くなってしまう。
一瞬でも、その考えになってしまった自分を後悔した。そして、先生の偉大さに改めて気がついた。いい先生ばかりだった。暴言を言われても、怒らないし、1対複数の相手をしていて1日で俺はヘトヘトだった。
そんで今日、そいつらと話して思ったことがある。 「自分のことについて考えて見よ」って言うと「何でそんなマジメな事考えないといけないの?」と彼らは言った。
自分の事なのに、あたかも他人の人生について語らないといけないの?的なことを言っていて驚いた。 きっと、中高生の時自分もそうだったと思う。
これって、先進国だから?教育のせいだから? わかんね。
でも、調べる価値は絶対ある。 それが、"やりたいことに挑戦できるような社会”を作る前の”やりたい事が見つける”ところに繋がるかもしれないなって思う。
きっと、誰もが輝きたくて・・・
僕には、目標があります。 個人的なのですが今まで2つの道を歩んできました。
1つ目は、野田悠太っていう道。 こっちの方が、人生の大半を過ごしてきました。この道は、自分で決めた道というよりかは決められたレールを歩いてきました。でもここで、自分という基礎が作られたと思います。だけど、失敗の連続で自分に自信がなくて辛かった。 2つ目は、リオっていう道。 リオっていうのはあだ名です。高校3年生の時に世界一周したいという目標が生まれて、その意志が次第に強くなりいつしか夢になりました。そこから、リオというもう1人の自分みたいなのができました。
今まで、何をしてもそこそこで結果は出せず何がしたいのかわからなくて自分の事を全く好きになれなかった。 だけど、リオっていう呼び名になるとなぜか自分のことをすごい好きになれるんですよね。自信が持てる。なぜかって、”挑戦している自分”がいるから。
俺よく、自分ってどんな人になってたいだろう?って考えるんだけど答えは、、
輝いてる人になりたい!
誰から見ても輝いてる人になりたい。 輝いてる人って誰だろ?って考えた時、社長とかいわゆる成功者かな?って思ったけど違った。 ヒントは、子供達にあった。子供たちにとって、輝いて見える人たちって誰だろって考えた時出てきたのは”挑戦してる人達”なんじゃないかって思った。
こないだ、ヒッチハイクしてた時ずっと車がつかまらなくて、でも諦めずにやってたら公園で遊んでる子供達が遊ぶのやめてずっと応援してくれてるんだよね。まるで、自分たちのことのように。スポーツ選手とかも同じだと思う。ただ、なったから輝いて見えるんじゃなくて常に記録を塗り替えようと挑戦してる姿が輝いてるんだって気がついた。
今年の目標を、年明けに”挑戦”って決めた。今更ながら、いい目標にしたなって思う。
いつになるかはわからないけど、この2つの人生をいつか1つにしたいなって思ってる。そしたら、もっと自分が好きになるって信じてる。
まずは、一歩踏み出す勇気。
でもそれって難しいのはわかってる。俺もどれだけ時間がかかったか。 まずは、自分のやりたいこととかを素直に声に出してみることからだったら、まだ難しくないような気がする。 口だけって言われてもいいと思う。言わない人よりかはマシって思えばさ
読んでくれてありがとうございました。
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ここ見てみて!さりげなーく1位なんです笑
意識高いって言葉に問う
よく大学生の間で、聞くフレーズでもっとも僕が謎めいてるワードNo.1
社会問題のことや、自分の将来のことなどをを真剣に考えてる人たちに「意識高いね」って言ってるのを聞きます。後は、みんなの物差しでは測りきれないようなことを考えてる人に言うんですかね?
なーんか、学生間での「意識高いね」って違った意味で使われているような気がしてるのは自分だけでしょうか?
意識が高いって、辞書で調べたら 「事柄に対して強く意識している。ある理念をよく理解している。」
でも、実際は一般的な大学生が考えないような事を考えてたり、行動している人たちに使われていたりするんですよね。例えば、地球環境とか政治とか、団体を運営してる人とか?
でもそれって、ただその人がしたいからしてるんだと思うんですよ。それをわざわざ「意識高いね」とか言わなくていいと思う。
しょーじき、答えが僕なりにも出てないんですけど、もっと「意識高い」って言葉が”いい意味”で使われたらいいのになって思う。 *ちなみに、僕が意識高いねとか言われたわけでもないです。ただ、気になってたから書いてみました。